2014年5月26日月曜日

MBAの資金計画~私たちの場合。


「私たちの」としたのは、私一人では到底無理だったからだ。
妻とふたり、収入が2倍だったから、なんとか実現できたのだとおもう。
お金の話のまえに、このような賭けに出る場合は、家族の了解がないと
決してうまくいかない。

特に夫婦ダブルインカムの場合、
「資金繰り」ならぬパートナーの「資産さぐり」から始まる。


私の給料は、ほぼ生活費として消えていくので自分の貯蓄は期待できない。
そうなると、妻の「へそくり?」をあてにするしかない。

「あのさぁ、今ウチの貯金ていくらだっけ?」
(彼女のものなのだが、あえて「ウチの」と言ってみる)

「えっ何の話?あなたが持ってなきゃ、ないんじゃないの。」

来た!いつものパターン。

実は、このような資金繰りは今回がはじめてではないので、
妻も警戒している。

一級建築士の資格を取るために、学校に通う資金も妻からの融資をうけた。
最終的にその融資の返済は、無事完了したのだが、
その後も、今の住まいを土地から建物まで完成させるのに、
「莫大な」妻融資を受けてまだそちらは、完済していない。

私「そっか…MBAに行くのに、融資は降りないかと…」(甘い期待をしていたが)

「貯めるしかないよ」

と先に結論を言われてしまった。。。

まだ、行先も決まっていない3年前のことである。

それでも、「ふたりで海外へ行く貯金」と名付け、毎月使っていなかった口座に
ふたりで少しづつ貯めていったのが、
今回のチャンスを実現する一つのステップだったと今になっておもう。

その時の内訳はこうだ。

MBA     240万(デンマーク・オーフス大MBA
渡航費    40万
生活費    108万
計        388万
(当時、ユーロは120円だったので、現在のユーロ換算だと55万円増えている。)


その1年半後、オーストラリアに決まっても、配偶者として妻の会社に
渡航費や健康保険をみてもらえることになったのだが、MBAの費用としては
400万を先に貯めておいて結果的に良かった。

もちろんこれをふたりのために使うのと、私一人のために使うのとは
まったく目的が違うので、最終的には、やはり妻の「合意」が必要なのは言うまでもない。

私が選んだ、University of WollongongのSydney Business Schoolの費用は、
去年までA$38,000だったのだが、運が悪く今年値上がり。
最終的にA$45,000と一気に値上がりしてしまった。

MBAの授業料だけで、430万ということだ。
それ以外に、通常なら渡航費、学生用生命保険、向こうでの生活費が必要になる。
学生ビザを取るのも、渡航検診(2万+東京指定病院への旅費)と申請費用(5万)で
約9万ほどかかる。

それ以外に、社会人ならば…

①前年の所得に対する住民税が海外に行ってから発生する
②退職するなら、任意の国民年金の支払いも発生する
③積立貯金や月払いの保険料も解約できないものは支払いが発生する。
④家を所有する者は、固定資産税が発生する。

これらの費用が、仕事をしなくてもいやがおうでもかかってくる。

「ゼロからのMBA」で元NHKディレクターの佐藤智恵さんが、
親ローンを活用してコロンビア大へ行った(卒後ちゃんと返済されたらしい)
と書いてあったが、それもそうだろうなとおもう。

ウチの場合も非常に厳しい資金繰りだった。

家のローンもあるし、ざっと計算しただけで
合計800万(妻の住民税、年金等含む)ほどの資金をどう工面しようか。
それこそ親に借金をお願いしようかまで考えて、話までしたが
思いとどまり、そこまではさすがにやらなかった。


最終的には、MBAの値上がり分は、私の7年間の
年金積立を解約してなんとか充てた。

「帰ってきたら、投資してもらった分を
必ずやお返し申し上げますので、何とぞ、なにとぞお願い申す~」

と言ったら、

「うーん、やむなし!」とまでは言われなかったが
妻は、なかば諦め(or呆れ?)モードでいたにちがいない。

どちらにしても、思い立ったらまず資金繰り。
隠れたコストを見える化して、早い段階で可能性を見極める。
会社が行かせてくれるならいいが、自費で行く場合
四十代はそんなに悠長に構えてははいられない!!

「場所や期間」の絞り込みも重要だが
ある程度の目処をつけるには、早めに
「先立つもの」の確保が必要だとおもう。

そして、家族のある日本男子には共通事項だとおもうが…

「我が家の大蔵大臣」への『許認可申請』を決して忘れてはならない。

2014年5月22日木曜日

ハウツー本が嫌いなワケ。



すべては物語からはじまる。 


神話学で有名なジョーゼフ・キャンベルの言葉。

大学時代に親友(現在、文化人類学者)から
「神話の力」という本がとにかくスゴイときいていたが
つい読む機会を逃していた。ずっと記憶の片隅にあり
その後ひょんなことで読む機会を得たのは、つい最近のことである。
キャンベルは百科事典のような人で、世界のあらゆる神話を網羅している。
あふれる知識の泉はどこからくるかというと、大恐慌時代に
5年間もぶっ続けで、毎日森のなかの別荘で神話などを読み耽っていたかららしい。


もし、私たちひとりひとり、自分が主人公の物語のなかに
生きているとしたら、書き手のあなたは、
白いページに何をつづりたいだろうか。

「神話」なんて、現代と何の関係があるの?と
普通のひとはおもうかもしれないが、何千年も昔の文字のない時代から
口伝えに伝えられてきた「物語」には、純粋な人間の真理が語られていると
キャンベルは言う。

今風に言えば、廃れることのない
ハイパースーパー口コミ情報ってところだ。

物語のいいところは、主人公を通して日常生活では味わえない「非日常」を
追体験することで、読み終えたときにちょっとだけまわりの世界が広がってみえること。

また、世にたくさん出回っているハウツー本と違って
押しつけがましくないところがいい。

読む人間によって解釈をまかされている感があるので
あっなるほどね、とか、そういうこと?みたいな
頭で理解するというより、腑に落ちる感覚だとおもう。

なぜこんな話をするかというと、最初にこの本を書こうと思ったときに
単に「MBAを学ぶにはどうしたらいいの?」とか「どんなことを学ぶの?」みたいな
表面的なハウツー本にはしたくなかったからだ。

世の中には、「~する方法」「~したら、儲かった!」みたいな
センセーショナルなタイトルがあふれているが
どれをみてもうすっぺらなラベルばかりで、中身が中途半端。
なかなか骨太な本に出逢えない。

キャンベル風にいうと、人はいろんな「仮面」をかぶって生きている。
仕事での「仮面」、社会での「仮面」、もしかしたら
家族としての「仮面」。でもそれは、素顔の自分ではない。

今このとき表面的にみえている「仮面」だけで人は判断しようとするが
仮面の裏では、葛藤や悲しみ、苦しみ、歓びや興奮など
複雑な思いが入り混じって混在している。

物語には、そういったいっさいの人間のうちにある混沌を
包括しながら、主人公の成長が描かれていく。

種々雑多な野菜や肉の入ったスープのようにうまみとコクが
あとから口にひろがって、ほっこりするような、そういう物語を
稚拙ながら私が主人公でづづらせてもらいたい。

第一章の冒頭で、ディケンズ著・クリスマスキャロルの
スクルージおじさんの話をしたが覚えているだろうか。

スクルージおじさんは、3人の聖霊によって、過去の自分、
現在の自分、そして、未来の自分を見せられてケチでしみったれた
自分に気づき、改心する。

私も同じように、親会社の社長によって過去の無垢な自分に思い至り、
ドラッカーによって現在の無知に気づき、
リストラされたニゲールによって、未来の選択、今からでも間に合うことを教えてもらった。

これは、一度は諦めによって始まっていた、私の「スクルージおじさん化」が、
三人のメンターによって改心させられたという物語である。

クリスマスキャロルの「Carol」は「祝歌=喜び歌う」という意味だ。

すべては物語からはじまる。
私の物語「MBA Carol」もここから始まる。

2014年5月16日金曜日

ドラッカーから与えられた課題。

ドラッカー著「企業とは何か(1946)」では、
米GM(ゼネラルモーターズ)の協力のもと、
組織内の人びとにインタビューをして、
人間の組織としての企業、社会における企業として
今何が起こっているかを分析し、あるべき姿を提案している。

冒頭を引用する:

企業の本質と目的は、経営的な業績や組織の構造ではなく
①企業と社会との関係、および、
②企業内の人間との関係にあるとする


ひとつめの企業と社会との関係では、
「自らの利益の追求が、自動的に社会的責任の
遂行を意味するよう経営」しなければ存続しないと言い、

その成果は、社会の中での存在の証(意義)であり、
責任を果たすための資源であると。

うーん…「成果」や「利益」は、人の欲望を満たすものであって、
「社会を更によりよくする資源」という視点では、
考えたことがなかったので、目からうろこだった。


二つめのポイントである企業内の人間の活動を、
それぞれ弱みも強みも雑多に持ち合わせた
「完全ならざるもの」達ととらえて、

組織(企業)は、人間から成るものなのだから、
完全なものは無理なので、そこを何とかうまく機能させることが必要だと。

うーん・・・並外れたリーダーたちが、
素人では思いつかないようなアイデアで
企業を運営するようなスーパーマン的なイメージがあったが、
「不完全なひとたちの集まり」だと、「組織」(企業)をとらえる視点は、
なんとなく普通に現場で働く社員にとっては、親しみやすい。


弱みも強みも種々雑多な人たちが、
ひとつの組織で、社会に成果を生み出すには、「マネジメント」が必要だ、
とあの有名なコトバ『マネジメント』がここでやっと出てくる。

企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。
企業とは何かを決めるのは、顧客にある。

顧客主義とうたっていても
組織で顧客の要求にこたえられる体制が出来ていなければ
人ひとりが対応できることには限りがある。

ドラッカーの「マネジメント」で一番共感するところは、
トップダウンの管理だけが、組織の機能ではないということだ。

「マネジメント」の3つの役割のひとつに、

仕事を通して働く人たちを生かす

というのがある。この部分の「マネジメント」は、
組織として存在する以上根本的な課題だと思う。

私もそうだが、自分の専門的な仕事については、
何をするかはやっているうちにわかってくる。
わかってくるが、毎日同じ仕事の繰り返しだと、
何も考えず、与えられた仕事のみこなせばよいと思ってくる。

それで給料はもらえても、人はそれだけでは満足しないのである。
ドラッカーは、「仕事の意味を知る」、何を行うかだけでなく
なぜ行うかを知る必要があるという。

現場の人間としては、ここは大賛成である。
トップは伝えた気持ちになっているが、
何が伝わっていないかを知らない。それを知る手だても非常に少ない。

そして、その伝わっていないことが、我々にとって
実は、本当に知りたかったことだということも知らない場合が多い。


働く者に対し、知りたがっていることを知らせていない。
彼らが知りたがっていること、知らないことを知ることが、
すべての基本とならなければならない(マネジメントより)

これは、トップ経営者からの視点。
私のような、普通の社員からいうと

知りたがっていることを知らせてもらうよう
働きかけなければならない、そのまえに何を知らないかを知ることが
すべての基本とならなければならない。

ドラッカーのいうマネジメントは、組織だけでなく
個々人の生き方、仕事の仕方、社会や地域における自分の立ち位置に
ついても適用できる。

ドラッカーの企業への質問を「私」に振替えるとこうなる。

①私の使命は何か?
②私の影響を与えたい人びと(顧客)は誰か?
③その人たち(顧客)が重視するものは何か?
④私は、どのような成果を上げているか?
⑤私は、どのような計画を立てているのか?

人はひとりでは生きていけない。
人である以上群れをなして、組織で何かを成していることを忘れてはいけない。
その組織のなかで、ひととのつながり、社会とのつながり、
自分自身をマネジメントしなければならない。

ドラッカーが引き合いに出しているイソップ寓話がある。
3人の煉瓦職人がいて
旅人がそれぞれ「何をやっているか?」と聞くと

一人目は、「親方の指示通り煉瓦積みさ!」面倒そうに

二人目は、「日銭のために壁をつくっているのさ」と仕方なく

三人目は、「地域の人びとが礼拝するための
大聖堂を作ってるのだよ。光栄なことだ。」と嬉しそうに話したという。

同じ煉瓦積みという仕事なのに、なぜ人によってこれだけ見方が違うのか?
誰だって、三人目のようにハッピーな気分で仕事したいはずだ。

「仕事の本質」、「働くことの意義」、「組織とは何か」を
MBAでは学びなさい。ドラッカーには、そういわれている気がする。

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2014年5月7日水曜日

40歳になっておもうこと。

初節句、入学式、卒業式、そして就職と「はじめて」のことは、なんと輝かしく美しいことか!
 
それは、20代までの話である。
30代後半になれば、胴回りのベルトに余分な肉が「初乗っかり」。
初白髪で輝いてはいても「美しい」とは言われず、
「オジサン」というレッテルを張られて「初」不名誉に陥れられるのも、この頃である。

数年前にあるテレビ番組で、「オジサンは何歳から、オジサンなのか?」
という問いに女子高校生が、「40くらいじゃないの?」と何の思慮もなく言っていた。

その時は、何気なく聞き流していたが、当の40になってみると、
彼女たちのコトバはグサリと胸に突き刺さる。
それどころか、最近患った腰痛の腰骨までにも響いてくる有様…

いつまでも若い気持ちでいたいが、
年やら重力やらには逆らえず、外見や身体の変化に精神が適応しきれない。
そんななんとなく割り切れない「お年頃」が「オジサン」なのだと思う。

 

作家の五木寛之さんは、著書「人間の覚悟」の序章で
「そろそろ覚悟を決めなければならない」と言った。

 

いよいよこの辺で覚悟するしかないな、と諦める覚悟がさだまってきたのである。
・・・では、「諦める」ことで何が見えてくるのか。・・・絶望も希望もともに人間の期待感である。その二つから解き放たれた目だけが、「明らかに究める」力をもつのだ。

 

そうは言っても、である。
凡人にとっては、そう簡単に諦めることも、覚悟もできない。
絶望も希望も感じながら、生きていくしかない。

五木さんも「諦めきれぬと、諦める」しかないと言っている。
ただ、10代、20代のように「なんでもやってやろう!」とか「やって砕けろ!」
というのとは違う気がする。

五木さんのように「人間の覚悟」を決めるまではいかずとも、
「オジサンとしての覚悟」はそろそろ決めなければならない。

 

どんな人でも人生で登りつめたら、今度は降りていかねばならない。
日本人男性の平均寿命がちょうど80歳。
その半分、ちょうど折り返し地点が40歳である

五木さんの「覚悟」は、事実を真正面から受け止めて
「明らかに究める」努力をすることで、
「人間とは何か?」を問うている。

 

一方、私はといえば、子どものいない「おふたりさま」で
「オヤジ」だとか「オジサン」と呼ばれる筋合いは全くないと思いながらも、
まわりの同世代と同じ年齢というだけで
「オジサン化」されてしまう不条理と戦いながら、
五木さんの言う通り、そろそろ下山する覚悟も必要なのかなと
彼の言うことも一理あるなと今では半分納得できる。

 

五木さんの考えが好きなのは、大学生の頃、
「生きるとは何か」を真剣に考えて、学外のいろんな人びとと交流するなかで
茨城県八郷に移り住んで有機農業を営んでいる
筧次郎さんに親鸞聖人のことを教えてもらったからである。

筧さんは、百姓になる前は大学で哲学を教えていた。
私にとっては、大切なメンターである。
五木さんの「人間の覚悟」にも、親鸞聖人の考えが出てくる。
「往相還相(おうそうげんそう)」。

「浄土にいった人が、再びこの地にもどって苦しむ人びとを助ける」
という考え方らしいが、私には、五木さんの解釈のほうがしっくり来る。

つまり、これまでの人生をいっぺん捨てる。 
そして新しい歓びに満ちた人生を再スタートする。
いったんリセットして生まれかわったように
生き生きした人生を獲得することが「往相還相」の本当の意味だろう。
「リセット」、そして「人生の再スタート」。
40歳、人生の折り返しとしては、悪くない言い回しではないか。

 

2013年の3月。40回目の「嬉しくない」誕生日を週末に控えた前日。

毎週のように長野から東京のオフィスへ出張している妻が、
東京からの帰りに豪華なフルーツ入りロールケーキを買ってきてくれた。

「三十代最後の日に敬意を表して3本にしましたよ。」

ロールケーキに灯された三本のローソク。
いつものバースデーソングのあと、
私は、ふーっと一息。

「願いごとはしたの?」

「うん、したよ!」

 

「ふたりの健康」と「人生の再スタート」を誓いながら・・・

いつものように、分厚く切ってもらったロールケーキをペロッと平らげ、
40直前の胴回りに新たな「メタボ肉」を添える「覚悟」をしたのである。

 

【引用:五木寛之「人間の覚悟」新潮新書 2008】
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